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[Vol.23]なぜDHAは「脳の脂質」と呼ばれるのでしょうか

人の名前が、すぐに出てこない。顔ははっきり思い浮かんでいるのに、肝心の名前だけが出てこない。しばらくしてから、「ああ、そうだった」と思い出す。
そんな経験をしたことはないでしょうか。

あるいは、部屋に入った瞬間に、「何をしに来たのだろう」と立ち止まる。
買い物に行ったのに、買うつもりだったものを忘れてしまう。
本を読んでいても、同じ行を何度も読み返してしまう。

年齢を重ねると、誰もが一度は経験するような出来事です。

そしてそうした瞬間に、私たちは少しだけ不安になります。
「脳が衰えてきたのだろうか」「年齢だから仕方がないのだろうか」そんな思いが頭をよぎります。

日常の小さな違和感

私たちは、脳について考えるとき、つい「機能」に目を向けます。
記憶力。集中力。判断力。理解力。反応速度。脳がどれだけ働いているか。どれだけ覚えられるか。どれだけ考えられるか。そうした結果ばかりに目が向きます。

しかし本来、脳を理解するためには、もう少し違う視点も必要です。
それは、「脳は何でできているのか」という視点です。

今号の読者からのご質問は

「DHA」とは何なのでしょうか?
「DHA」とは、脳や神経を構成する重要な脂質のひとつです。

DHAという名前は、多くの方が聞いたことがあるでしょう。テレビの健康番組。雑誌。新聞。サプリメント。魚の栄養を紹介する記事。さまざまな場面で、「DHAは脳に良い」という言葉を見かけます。

しかし、なぜ脳に良いのでしょうか。

そう聞かれると、意外と答えに困るかもしれません。魚に入っているから。頭に良いと言われているから。なんとなく健康そうだから。多くの場合、その程度の理解で止まっています。
しかし実は、DHAは単なる栄養素ではありません。脳の構造そのものに深く関わっているのです。

前回は、「脳は、どんな状態からでも応えてくれる」というテーマでお届けしました。歩行が難しくても。運動量が少なくても。小さな刺激であっても。脳は刺激を受け取り、変化する可能性を持っています。

脳は、使うことで応えます。これはとても大切な考え方です。

しかし今回は、さらに一歩踏み込んでみたいと思います。
脳は刺激によって働きます。けれども、刺激だけで脳は働き続けることができるのでしょうか。

植物に例えるなら、刺激は日光のようなものです。しかし植物は、日光だけでは育ちません。
土が必要です。水が必要です。栄養が必要です。脳も同じです。刺激は大切です。
しかし、刺激を受け取るための土台も必要です。

今回は、脳と神経のネットワークを支える重要な構成成分である「DHA」について考えてみたいと思います。

「なぜDHAは「脳の脂質」と呼ばれるのでしょうか」

今号は、「DHAと脳の深い関わり」という視点から、矢澤博士に詳しく教えていただきます。

プロフィール

矢澤先生お写真

農学博士 矢澤 一良 先生
(Kazunaga Yazawa)

早稲田大学 ナノ・ライフ創新研究機構 規範科学総合研究所ヘルスフード科学部門 部門長

1972年 京都大学・工学部・工業化学科 卒業
1973年 (株)ヤクルト本社・中央研究所入社、微生物生態研究室勤務
1986年 (財)相模中央化学研究所入所(主席研究員)
1989年 東京大学より農学博士号を授与される
2002年 東京水産大学大学院(現東京海洋大学大学院) 水産学研究科 ヘルスフード科学(中島董一郎)寄附講座(客員教授)
2012年 東京海洋大学 特定事業「食の安全と機能(ヘルスフード科学)に関する研究」プロジェクト(特任教授)
2014年 早稲田大学ナノ理工学研究機構 規範科学総合研究所ヘルスフード科学部門(研究院教授)
2019年より現職
ライフワークは、「食による予防医学」、「オール世代フレイル対策」など。

なぜDHAは「脳の脂質」と呼ばれるのでしょうか

そもそも「DHA」とはどのようなものなのですか。
「DHA」は、ドコサヘキサエン酸という脂肪酸の一種です。

脂肪酸とは、脂質を構成する材料です。脂質というと、「体脂肪」「コレステロール」「太る原因」というイメージを持つ方もいるかもしれません。確かに、過剰な脂質摂取には注意が必要です。

しかし、脂質そのものは悪者ではありません。私たちの身体は、脂質なしでは存在できません。
細胞をつくるためにも、ホルモンをつくるためにも、神経を働かせるためにも、脂質は必要です。むしろ問題なのは、脂質を摂ることではなく、どのような脂質を摂るかです。

私たちの身体には、およそ37兆個の細胞が存在するといわれています。
皮膚の細胞。筋肉の細胞。肝臓の細胞。血管の細胞。そして脳の神経細胞。
これらの細胞は、すべて細胞膜によって包まれています。そして細胞膜の主要な材料のひとつが脂質です。つまり脂質は、身体を構成するための材料そのものなのです。

ここで少し、脳について考えてみましょう。
脳は体重の約2%しかありません。しかし、消費エネルギーは全身の20%前後を占めています。

つまり脳は、非常に活動量の多い臓器です。しかも休みません。眠っている間も働いています。
呼吸を管理し、心拍を調整し、記憶を整理し、身体の状態を監視しています。脳は24時間、休むことなく働き続けています。

脳はエネルギーを多く使う臓器

その脳の中には、約860億個もの神経細胞が存在すると考えられています。神経細胞は、まるで木の枝のように複雑に伸びながら、他の神経細胞とつながっています。その数は、天文学的ともいえるほどです。今この文章を読んでいる瞬間も、目から入った情報が脳へ送られ、意味として理解され、過去の知識と照合されています。
そのすべてが、神経細胞同士のやり取りによって行われています。

神経細胞(ニューロン)の全体像

神経細胞同士のつながり(ネットワーク)

  

脳はしばしば、「電気の臓器」と呼ばれます。神経細胞は電気信号を使って情報を伝達しているからです。しかしここで、ひとつ疑問が生まれます。もし脳が電気で動いているなら、なぜDHAのような脂質が必要なのでしょうか。なぜ、脂質が脳で重要なのでしょうか。

その答えを理解するためには、神経細胞の“表面”に目を向ける必要があります。
その表面に存在しているのが、細胞膜です。

神経細胞の表面で起きていること

細胞膜という言葉を聞くと、多くの方は「細胞を包んでいる膜」という程度のイメージを持たれるかもしれません。もちろん、それも間違いではありません。
しかし実際には、細胞膜は単なる“外壁”ではありません。もし細胞膜がただの壁であるなら、神経細胞は情報を受け取ることも、送り出すことも、周囲と連携することもできません。

神経細胞は、細胞膜を通じて外の世界とつながっています。必要な情報を受け取り、必要な物質を取り込み、不要なものを排除し、次の細胞へ情報を伝える。
細胞膜は、神経細胞の玄関であり、窓口であり、通信基地のような存在です。

例えば、大きな会社を想像してみてください。立派な社員がいても、電話がつながらない。メールが届かない。受付が機能していない。これでは仕事は回りません。神経細胞も同じです。
どれほど優れた神経細胞であっても、情報を受け取り、伝える仕組みがうまく働かなければ、本来の力を発揮することができません。そしてその最前線にいるのが、細胞膜です。

私たちは、「脳は電気信号で動いている」と考えがちです。もちろんそれは正しいのですが、電気信号そのものだけでは情報は伝わりません。情報を受け取り、調整し、次の細胞へ渡していくためには、細胞膜という舞台が必要です。
つまり、脳の働きを考えることは、細胞膜の働きを考えることでもあるのです。

神経細胞は全体が細胞膜で包まれている

細胞膜は何でできているのでしょうか?
ここで再び、脂質の話に戻ります。

細胞膜の主な材料は、脂質です。そしてその中心となるのが、リン脂質と呼ばれる脂質です。
リン脂質は、細胞膜をつくるために非常に重要な存在です。

私たちの身体の細胞は、このリン脂質によってつくられた細胞膜によって守られています。
神経細胞も例外ではありません。むしろ、神経細胞ほど細胞膜が重要な細胞はありません。
なぜなら、神経細胞は常に情報をやり取りしているからです。

細胞膜中のリン脂質

細胞膜中のリン脂質の図

ここで、少し身近な例を考えてみましょう。
もしスマートフォンの画面が硬く反応しなかったらどうでしょう。
何度押しても反応しない。少し遅れて反応する。誤作動が起こる。それだけで使いにくくなります。神経細胞の細胞膜も、ある意味では似ています。もちろん単純に比較できるものではありませんが、神経細胞にとって、細胞膜の状態は非常に重要です。

情報を受け取る。情報を伝える。環境の変化に応じて反応する。そうした働きの土台になっているからです。

「しなやかさ」が意味を持つ理由

細胞膜を語る際に「流動性」という言葉がよく使われます。
難しい言葉に聞こえるかもしれませんが、簡単にいえば、細胞膜のしなやかさです。

硬い膜よりも、適度なしなやかさを持つ細胞膜の方が、細胞は柔軟に働きやすいと考えられています。これは神経細胞でも同じです。

神経細胞は、一秒たりとも休むことなく情報を処理しています。
会話。記憶。感情。判断。集中。すべてが神経細胞同士のコミュニケーションです。
だからこそ、神経細胞を取り巻く環境は重要になります。

そしてここで、「DHA」が登場します。「DHA」は、神経細胞膜に多く存在する脂肪酸です。
つまり、神経細胞を外から応援しているわけではありません。神経細胞そのものの構造に組み込まれているのです。
これは非常に大きな意味を持っています。

DHAは細胞のどこにいるのか

DHAは細胞膜を作る材料のひとつです。リン脂質の二本足のいずれか一方にDHAが使われることで、細胞膜の性質に大きく関わっています。

細胞膜のしなやかさ(流動性)の図

なぜDHAだけが特別なのでしょうか
オメガ3脂肪酸には、DHA以外にも種類があります。EPA。ALA(α‐リノレン酸)どれも重要な脂肪酸です。

しかし、脳との関係で語られるとき、なぜDHAが特別視されるのでしょうか。
その理由のひとつは、DHAが脳や網膜に非常に多く存在していることです。

網膜とは、目の奥にある光を受け取る組織です。私たちは、単に目で見ているわけではありません。網膜が光を受け取り、その情報を電気信号に変換し、脳へ送ることで、初めて「見る」という体験が生まれています。

つまり、網膜も脳も、どちらも情報を扱う組織です。そしてその両方に、DHAが多く存在しています。

これは偶然ではありません。自然界は無駄なものを大量に配置するほど非効率ではありません。
脳や網膜にDHAが多いという事実は、DHAが情報を扱う組織にとって重要な役割を担っている可能性を示しています。だからこそ、DHAは長年にわたり研究され続けているのです。

年齢を重ねることと、脳が変化すること

ここでひとつ、大切なことがあります。それは、年齢を重ねることと、脳の働きが低下することは、必ずしも同じではないということです。
私たちの身体は常に変化しています。皮膚も。筋肉も。骨も。血管も。そして脳も。変化しないものはありません。

しかし、変化することと、機能を失うこととは同じではありません。
例えば、筋肉は年齢とともに変化します。しかし適切に使えば、何歳からでも鍛えることができます。脳も同じです。
前回お伝えしたように、脳は刺激に応えます。使うことで応えます。学ぶことで応えます。
人と関わることで応えます。

そして今回お伝えしたいのは、脳は刺激だけでなく、環境にも支えられているということです。
神経細胞。細胞膜。脂質。DHA。こうした要素もまた、脳の働きを支える背景に存在しています。

「脳に良い」とはどういう意味なのでしょうか
健康情報の世界では、「脳に良い」という表現が頻繁に使われます。

しかし、脳に良いとは何でしょうか。一時的に元気になることでしょうか。集中力を高めることでしょうか。それもひとつの側面かもしれません。
しかし、もっと本質的に考えるなら、脳が本来持っている働きを支えることではないでしょうか。

脳は毎日働いています。休むことなく、膨大な情報を処理しています。その働きを支えるためには、神経細胞があり、細胞膜があり、その材料となる脂質があります。
DHAは、その材料のひとつです。だからこそ、単なる栄養素ではなく、「脳の脂質」と呼ばれているのです。

今回のまとめ

私たちは脳を考えるとき、つい記憶力や集中力といった結果ばかりに目を向けます。
しかし、その背景には、神経細胞という構造があります。神経細胞には細胞膜があります。

細胞膜は脂質によってできています。
そしてDHAは、神経細胞膜に多く存在する重要な脂肪酸です。

つまりDHAは、脳を外から支える栄養ではなく、脳を構成する材料のひとつなのです。

脳を理解することは、脳の働きを知ることだけではありません。脳が何によって支えられているのかを知ることでもあります。
その視点を持つことで、「DHAは脳に良いらしい」という漠然とした理解が、「なぜDHAが脳の脂質と呼ばれるのか」という納得へ変わっていきます。

次号予告:脳はなぜ思い出したり会話したり反応できるのでしょうか

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